2999年のゲーム・キッズ考察作成の9年ほど後の2012年9月に行った考察をまとめたページです。
その1を読み返したうえでその2を作ったわけではないので内容的に矛盾が含まれているかもしれません。基本的にはブログに書いた内容(1つ目、2つ目)をそのまま転載しているだけです。
ゲーム版『2999年のゲーム・キッズ』(『完全版』、『完全版DX』では「シカの話」)には 物語終盤に選択肢が存在しています。 この選択肢が指し示す意味について。
私自身の感想になりますがゲームには「サウンドノベル」というような 選択肢を前提に置いた読み物が昔から存在しているので プレイした時も分岐があることに違和感はありませんでした。 おそらくこのゲームをプレイした方のほとんどもそうであったと考えています。
しかし書籍版(『完全版』、『完全版DX』)にもこの選択肢は残されています。 分岐の仕方が
>新しい方だ。僕が、古い方」→90Pへ
>古い方だ。僕が、新しい方」→99Pへ
(『完全版DX』より) というように昔でいうゲームブックのようになっているんですね。 他の500ページ近くにはそんな選択肢はないのにこの部分だけが唯一分岐していて なんというか違和感を感じると共に「何が言いたいんだ」という気持ちに包まれたことを覚えています。
このうち片方の選択肢では主人公シカは街の秘密を知ることになるのですが、 もう片方の選択肢では夢オチともとれるような終わり方をして、 初めて両方の選択肢を試したときには、 個人的な感想ですが前者だけでよかったんじゃないかと思いました。
結論を書きますと この選択肢の意味というか選択肢がある理由は、 世界が分岐することを表現しなくてはいけなかった為です。
それ以前の物語でシカ(プレイヤー・読者)は
ということを知らされています。
本当にすべての循環が完全に行われており、運命が決しているのであれば 物語は完全に一直線の物語になり選択肢が存在する余地はないのです。 シカの意志(選択)が世界の在り方を分岐させる、 人の自由意思は存在しうる世界であるということを表すための選択肢なのでした。
シカの意志は世界の運命を揺らがせるというところから続き。
シカは、リニュー・デイに街の全ては「再生」され、 世界が循環していることを知ります。
リニュー・デイのオペレーションはいまある体を修復していくのではなく 新たにもう1つの体を作り直してそこに記憶をインプットするという形をとられています。
ここで思い出したいのは「第六章 空を飛んでみた」では シカが過去(第五章)に一時的につけたシズクホタルの目と同調し シズクホタルの視覚を得ていたことです。
過去につけていた目と同調しうるということは 全てが無限回数の循環を繰り返しているこの街では 全ての目と同調しうるということです。 1つ前のループでシカがつけていたものは 今回のループではマリーがつけていたものかもしれませんし パウのものかもしれませんし、オッペンのものかもしれません。 「かもしれない」は無限のループが繰り返されることで「絶対」になります。
そもそも同調が限られているのが視覚に限られたものとは限りません。 シカとマリーで食い違っている出会いの記憶、 オッペンが骨董屋だった記憶、 これらだって過去のループでの記憶が浮かび上がってきたものなのかもしれません。
街が時間的に循環していること、 物質も街の中を循環していること、 この2つに気づいたシカは第十章でリセが言っていた 「本当はあなたは、何でも思い出すことができるはず。 そして何にでもなることができるはずなのよ」 という言葉の意味を理解し、実践できるようになりました。
もう1つ、シカについて書いておきたいことがあります。
シカはかつてより脳内に街を再現しておりました。 第一章では「僕が見る夢の世界は、現実の、僕が住んでいるこの街とそっくりだ。」という記述、 第七章では「僕の頭の中にはこの街のコピーがあるってことさ。 (略)僕はこうやって目を開けて足を動かして歩く必要がもう、 なくなっているんじゃないかと思うことがあるんだ。」という記述がすでになされています。
ただし、第七章のこの後には 「「でもすべては、多分僕の考え違い」 君は僕の思い込みの中に住んでいる君だけではなかった。」 と続きます。 マリーと別れる一因となった出来事でもあります。
つまり、以前のシカは脳内に静止した3次元モデルとしての 街の構造は再現できていたが、 人の気持ちといった物は考慮に入っていなかったのです。 ループしていることを知ったということは、 なんでも思い出すことができ、 何にでもなることができるようになったシカが 脳内に時間の流れを含めた4次元空間としての街を 再現できるようになったということでもあったのです。
シカは、ボディー・リニュー・オペレーションを逃れました。 これによって、繰り返された1月1日よりシカという存在は2人いることになってしまいます。 これもまた、塔の不完全性を表す出来事です。 塔が循環を完全な形で行っているならば起こりえないことなのですから。 自分の家に戻りもう1人のシカを見たシカは気づきます。 ループは完全な形では起こっていないことを。 自分の存在が不規則な存在であることを。
この後、シカがどのような行動をとったのかは想像するしかないことですが、 私はこう考えました。
シカはマリーとバッツィーの記憶は消去せずに持ち続けようと考えていました。 しかしメモリー・リセットを強要するこの街に、 人の気持ちを蔑ろにする街に自分の意志(気持ち)をもって戦いを挑んだのだと。
シカはオペラス理論について教科書で学んでいます。 1つの現象が何兆もの現象に影響を与えることも。 街にとって不規則な存在である自分が意図的に街に害する行動を行えば それはこの街に必ず終わりを与えることを理解していたはずです。
この節、おわり。
以下余談。
ということでレイスの話を読むまでもなく実は街は死の発明に向かっていたのでした。 今回と前回の内容は「シカの話』パートのみから引っ張ってきた内容です。 (もちろん『完全版DX』まで読んだ後に書いているので牽強付会なところもあるとは思いますが) 「シカの話」パートとほぼ同内容のゲーム版のみプレイしてよくわからんというコメントがされているのを見たことがあるので これくらいの推測が可能だったんじゃないかという意味も含めてそれを記しておきます。(ただし、ゲーム版と「シカの話」はリセとの会話が大幅にカットされているなど異なる部分も多分にあります)
もう少しこじつけるならば シカが小さかったころには街の果ての鉄条網はもっと街の外側にあったそうです。 これが手前に移されてきた理由は 街の処理能力がシカの行動によって手におえないレベルとなったので 街自体を小さくしたのではないかとか、 限界地区がパイプラインの発展とともに使用されなくなっていったという設定も 街が処理内容を少なくするためにパイプラインを設置するようになったのではないかということもできます。
もう一つ、シカが無限のループによって 街の人々の誰にでもなれるようになったというのが納得できない場合は 書籍版『2999年のゲーム・キッズ』の「スタルトの話」をもって対応することもできます。 スタルトの視界は街の全てのカメラを見ることができます。 それによってスタルトは街そのものとなり、街の人々の感情すらにも 同調している記述があります。
シカがループに気づき、視覚同調を意図的に街の人々とできるようになり、 スタルトと同調することによって 間接的に街の人々と同調することができるようになったという解釈もできます。 (本文は「シカの話」パートからのみ持ってくるという縛りなのであのように書いたのですが、 個人的にはこっちの方が有力だと考えています。 そうじゃないと書籍版『2999年のゲーム・キッズ』内で 唯一「シカの話」パートとリンクしない 「スタルトの話」の解釈に困るんですよね……)